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化学よもやま話
~身近な元素の話~ 重水素
佐藤 健太郎
元素記号を持つ同位体
元素を新たに見つけ,命名することは,科学者の最大の夢のひとつだ。何しろ自分の名づけた元素名が子々孫々にわたって使われていくことになるのだから,これはノーベル賞以上の栄誉といってもよいだろう。史上,100少々しかないその座をめぐって争いは繰り返され,多くの混乱が巻き起こされてきた。いったん命名がなされたものの,後に間違いとわかって周期表から消された「幻の元素」の数は,本物の元素に匹敵するともいわれる。
同じ元素の同位体が異なる元素と誤認され,別の名称を付けられたケースも少なくない。たとえばトリウム227は当初ラジオアクチニウム(radioactinium),トリウム230はイオニウム(ionium)という名が付けられ,元素記号も与えられていた。こうした混乱は徐々に修正,整理されていったが,独立した名前と元素記号を持った同位体が,今でも二つだけ生き残っている。重水素(deuterium,元素記号D)と,三重水素(tritium,元素記号T)がそれだ。
これら二つの名前が生き残ったのは,軽水素(元素記号H)とは化学的・物理的性質が少々異なること,そしてそれを生かした用途が拓かれていることが大きい。ご存知の通り,同じ元素の同位体の間では,基本的に化学的性質はほぼ同等だ。しかし最小の元素である水素では,中性子の存在が大きく影響し,化学的性質にも目に見える相違が出てくるのだ。
重水素が発見されたのは,1932年のことだ。ハロルド・ユーリー(放電によって原始大気からアミノ酸ができることを示した,ユーリー=ミラーの実験でも有名)は,液体水素を少しずつ蒸発させ,沸点のわずかな差を利用して,重水素を濃縮することに成功した。わずか2年後の1934年には,早くもノーベル化学賞がユーリーに与えられているから,この発見がいかに高く評価されたかわかる。
原子力と重水素
発見された重水素の大きな用途は原子力開発だった。ウランなどの核分裂が連鎖的に続くためには,飛び出してくる中性子を適当な速度に減速してやる必要がある。重水素は,この減速材としてぴったりの性質を持っていたのだ。現在でも重水を減速材として用いる原子炉は,カナダなどで用いられている。
重水素はまた,核融合の好適な材料ともなり,水爆開発にも用いられた。重水素と三重水素は最も低温(といっても1億度)で核融合を起こす組み合わせであり,核融合炉の「燃料」として最も有望視されている。しかし実用化に向けて解決すべき問題はあまりに多く,研究開始から数十年を経た現在も,核融合はいまだ「未来のエネルギー源」であり続けている。
1989年には,「常温核融合」という騒動もあった。パラジウムの電極を用いて重水を電気分解すると,異常な発熱と放射線の発生が観測され,その原因は重水素の核融合によるものだと主張されたのだ。今まで巨大な機器と超高温を必要とした核融合が,ごく簡単な装置で常温常圧下に実現できるというのだから,これが本当であればエネルギー利用の革命が起きる。発見者の名を取って「フライシュマン-ポンズ効果」と名づけられたこの現象は,物理学界のみならず産業界・政府まで巻き込んだ一大センセーションとなった。
しかしその後,多くの科学者たちの追試の努力にもかかわらず,フライシュマン-ポンズ効果は再現しなかった。放射線量もバックグラウンドとほとんど変わらず,核融合が起きているという主張を裏付けるにはほど遠いものだった。今も研究は一部で続いているが,信頼できる査読つき学術誌に掲載された論文はごく少なく,最大限ひいき目に見ても,今のところ未来のエネルギー源として利用できそうな気配はない。何とも人騒がせな話ではあった。
重溶媒
有機化学者にとって最も身近な重水素の用途は,恐らくNMRの重溶媒だろう。合成・単離した試料を,重水素化されたクロロホルムやDMSO,水などに溶解して測定する作業は,有機化学の研究者にとって日常的なルーチンワークだ。今や重溶媒を抜きにした研究は考えられないといってもいいだろう。
ところで,その重溶媒の合成法はどうなっているのだろうか。水の電気分解を行うと,軽水素が先に反応してゆき,重水素を選択的に濃縮できる。現在ではこの手法で重水の生産が行われている。
古い文献によれば,重水素はヘキサクロロアセトンと重水の反応によって合成できるとされる。またアセトンを塩基性の重水中で撹拌することでH-D交換が起こり,重アセトンが得られるとしている。恐らく同様の反応で,重DMSOも合成可能であろう。現在もこの方法で製造されている——かどうか調べてみたかったが,やはり企業秘密になっているようだ。ともかく,かつては苦労して各自が調製していた重溶媒が,高品質かつ手軽に入手できるようになったのは実にありがたいことだ。
古い文献によれば,重水素はヘキサクロロアセトンと重水の反応によって合成できるとされる。またアセトンを塩基性の重水中で撹拌することでH-D交換が起こり,重アセトンが得られるとしている。恐らく同様の反応で,重DMSOも合成可能であろう。現在もこの方法で製造されている——かどうか調べてみたかったが,やはり企業秘密になっているようだ。ともかく,かつては苦労して各自が調製していた重溶媒が,高品質かつ手軽に入手できるようになったのは実にありがたいことだ。
重水素と生命
重水素は,生命にはどう影響するのだろうか?たとえば重水だけで動物を育てたら何か障害は起きるのか,それとも見た目より体重が1割ほど重たいだけの普通の生き物ができるのだろうか。ある報告によれば,重水を動物に投与すると,体液の10~20%が重水になった段階で筋力低下などの障害が起こり,30~40%で死に至るという。重水素は通常の水素と若干反応性が異なり,たとえば一般にC-D単結合はC-Hに比べて6~10倍ほど反応が遅いとされる。この「重水素効果」が体内の各種反応を狂わせ,毒性として現れるのだろう。電気分解で重水を分離できるのも,この効果によるものだ。
重水素の用途は近年広がりを見せている。重水素で標識した化合物は,質量分析などで検出が容易であるため,生合成経路の研究や,医薬品の体内動態追跡に威力を発揮する。放射性の三重水素より感度は劣るが,安価かつ取り扱いが容易(放射性同位体用の設備を必要としない)であるため,近年こちらが主流となっている。
ただし注意すべきは,先述の重水素効果の問題だ。医薬品が肝臓で代謝を受ける際,C-H結合が切断されて酸化されるケースは多いが,この位置に標識として重水素を導入すると,通常の医薬分子とは異なる挙動を示すことがありうる。
ただし注意すべきは,先述の重水素効果の問題だ。医薬品が肝臓で代謝を受ける際,C-H結合が切断されて酸化されるケースは多いが,この位置に標識として重水素を導入すると,通常の医薬分子とは異なる挙動を示すことがありうる。
この現象を逆手に取り,医薬分子に重水素を導入することで,体内での安定性を高めて薬の効き方を改善するというアイディアが出された。この手法で既存の医薬に重水素を導入し,片端から特許申請を行ったベンチャー企業が現れたため,製薬業界は慌てた。これが全て認められるなら,各社の医薬品の莫大な売り上げが,根こそぎこの企業に持っていかれることになりかねないからだ。
重水素化医薬の例 抗うつ剤ベンラファキシン
ただしその後,単に既存医薬を重水素化しただけでは,特許の要件である「進歩性」がないとして,ほとんどの特許は認可されていないようだ。だがこのアイディアはその後ドラッグデザイン手法の一つとして認められ,代謝を防ぐために重水素が導入された医薬候補化合物は増加しつつある。
また近年では,有機ELの発光層材料に重水素を導入することで,発光効率の上昇,耐久性の向上などを実現した例も出てきている。もちろん重水素のコストは問題だが,こうした高付加価値化合物であれば,ペイする可能性は十分出てくるだろう。水素であって水素でない,この不思議な「元素」の存在は科学者にとっていわば「盲点」であり,それだけにまだ多くの可能性を秘めているといえそうだ。
また近年では,有機ELの発光層材料に重水素を導入することで,発光効率の上昇,耐久性の向上などを実現した例も出てきている。もちろん重水素のコストは問題だが,こうした高付加価値化合物であれば,ペイする可能性は十分出てくるだろう。水素であって水素でない,この不思議な「元素」の存在は科学者にとっていわば「盲点」であり,それだけにまだ多くの可能性を秘めているといえそうだ。
執筆者紹介
佐藤 健太郎 (Kentaro Sato)
[ご経歴] 1970年生まれ,茨城県出身。東京工業大学大学院にて有機合成を専攻。製薬会社にて創薬研究に従事する傍ら,ホームページ「有機化学美術館」(http://www.org-chem.org/yuuki/yuuki.html,ブログ版はhttp://blog.livedoor.jp/route408/)を開設,化学に関する情報を発信してきた。東京大学大学院理学系研究科特任助教(広報担当)を経て,現在はサイエンスライターとして活動中。著書に「有機化学美術館へようこそ」(技術評論社),「医薬品クライシス」(新潮社) ,「『ゼロリスク社会』の罠」(光文社)など。
[ご専門] 有機化学