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化学よもやま話(2021年春)
閑話九題(1)
高知工科大学 環境理工学群 教授 西脇 永敏
閑話とは暇に任せてする無駄話です。この度,大学の研究室における閑話を3回に亘って連載することになりました。学生さんにとって,1つでも参考になるものがあれば幸いです。今回は溶媒に関するお話にお付き合い下さい。
その1 エチル基降臨
文子さんが反応を仕込んでいた。TLC(薄層クロマトグラフィー)で反応追跡すると,原料のスポットが徐々に消失し,生成物のスポットが新たに現れていた。文子さんは早速に溶媒を減圧留去して,反応混合物のNMRを測定したところ,エチル基のシグナルが観察された。どこにもエチル基を有する試薬を使っていないにも拘らず,である。訳が分からなくなって先生に相談したところ,「クロロホルムを溶媒に使った?」と訊かれた。「はい」と答えると,先生は「やっぱり」と納得したが,文子さんには何のことかさっぱり分からないままであった。
⇨ クロロホルムのようなハロゲン含有溶媒は,毒性の観点から工業的には使用がかなり制限されています。とはいえ有能な溶媒ですので,大学の研究室で依然として使用されています。その一方で,特異な反応を引き起こすことがあります。その原因の1つが含まれている微量の酸であり,もう1つが安定剤として含まれているエタノールで,クロロホルムが分解してホスゲンが発生するのを防いでいます。エタノールは反応性が高い化合物ですので,反応に関与することがたまにあります。しかし,身に覚えのないシグナルが現れると焦りますよね。
その2 だまそう(DMSO)と思っても,その手には・・・
瑞紀くんが合成した新規化合物のスペクトルデータを集めていた。1H NMRを測定すると,目的とする化合物の構造に矛盾のないスペクトルが得られた。しかし,重クロロホルムに対する溶解性がそれほど高くはなく,13C NMRまでは測定できなかった。そこで,溶媒を重DMSO(ジメチルスルホキシド)に替えて13C NMRを測定すると,考えていた構造とは矛盾するスペクトルが得られた。そこで,13C NMRの測定に用いた試料を用いて1H NMRを測定してみると,そこには全く異なったシグナルが観察されたのであった。
⇨ DMSOは高極性の溶媒で極性化合物の多くを溶解してくれます。ただ,高沸点で留去が困難なところが難点ですが。NMR用の溶媒には比較的安価な重クロロホルムが用いられますが,難溶性の化合物の場合には重DMSOが用いられます。しかし,溶媒に溶かしただけで,何も変化しないというのは勝手な思い込みで,周りの極性が変われば構造が変化してしまうこともあります。面倒臭がらずに,それぞれの溶媒でデータを収集しなければなりません。逆にそのような小さな変化を見逃さないようにすれば,新しいテーマの展開に繋がることもあるかもしれません。
その3 雲散霧消
ある梅雨空の日,文子さんがひだ折りろ紙を使って,ジエチルエーテル溶液をろ過していた。ろ過は順調に進んでいたが,ろ紙の淵にきれいな無色の結晶が析出する様子が観察された。結晶というのは化学者にとって魅力的なものである。文子さんはその結晶をスパチュラで取ろうとしたが,すくい上げた瞬間消えてなくなった。しかし,ろ紙の上には嘲笑うかのように再び結晶が析出していた。簡単に手に入らないものほど追いかけたくなるのが人情である。その後,文子さんはろ紙の上に現れる結晶を追いかけて,何度もトライを重ねたが,結局その努力は実を結ばれることはなかった。
⇨ ジエチルエーテルは研究室で用いる有機溶媒の中でも低沸点,高揮発性の溶媒です。高温多湿の日にろ過をしていますと,表面積の大きなろ紙上からどんどん揮発していきます。その際,気化熱を周囲から奪いますので,空気中の湿気がろ紙上に凝結します。そう,文子さんが取ろうとしていたのは,氷の結晶だったのです。すぐに現れますけれど,取り出すと消えて無くなるのは当然ですね。しかし,何でも取って明らかにしてやろうという貪欲さは研究に必要な姿勢です。
執筆者紹介
西脇 永敏
- [ご経歴]
- 1991年 大阪大学大学院工学研究科応用精密化学専攻博士後期課程修了
同年 大阪教育大学教育学部助手
2001年 同准教授
2000―01年 デンマークオーフス大学博士研究員
2008年 阿南工業高等専門学校准教授
2009年 高知工科大学環境理工学群准教授
2011年より現職